季語のない俳句
歳時記の言葉を持たない句。
それでも、季節はそこにある。
季語のない俳句は、俳句か
季語のない俳句を「無季俳句」と呼びます。歳時記に載る季節の言葉を、句のなかに持たない句です。五・七・五の定型を守るかどうかとは別の話で、定型のまま無季の句もあれば、自由律で季語のある句もあります。
「俳句には季語が要る」という約束は、連歌の発句が季節の挨拶を兼ねていたことに始まります。正岡子規の写生も、高浜虚子の花鳥諷詠も、この約束の内側にあります。いっぽうで、約束の外の句も明治の末からずっと書かれてきました。荻原井泉水の「層雲」に集まった自由律がそうですし、昭和のはじめには定型の側でも、無季を認めるかどうかが大きな論争になりました。
無季と自由律は、別の軸
無季は「季語がない」こと。自由律は「五七五を守らない」こと。ふたつは独立した軸です。種田山頭火の句集『草木塔』には、季語のない句と、季語のある句が並んでいます。まず、季語のない句から。句をえらぶと、読みと解説のあるページにうつります。
道と、わたしと、朝の星。歳時記の言葉はひとつもありません。それでも、いつのことか分からない句にはなっていません。
次に、季語のある句。しぐれは冬、春の雪は春の言葉です。
季語がなくても、季節はある
山頭火は歳時記から言葉を引いたのではなく、歩いている実際の季節のなかで句を書きました。しぐれの句には、その日しぐれが降っています。季語として置かれたというより、そこにあったから書かれた。だから無季の句にも、その日の天気や時刻の手ざわりが残ります。
「季語がないから俳句ではない」と切るより、「季節の言葉に頼らずに、一回きりの時間を写せているか」で読むほうが、山頭火の句にはあっています。定義の答え合わせは、句を読む理由としては少しさみしい。
あわせて読む
五七五のほうの約束については自由律俳句とはに、同じ層雲にいたもうひとりについては山頭火と尾崎放哉に書きました。山頭火の歩みは種田山頭火についてにあります。
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